信念のパズルについて④

今回の記事で長かった?信念のパズルのお話はおしまいです。

信念のパズルについて②http://afro1125.hatenablog.com/entry/2013/03/02/055209

信念のパズルについて③http://afro1125.hatenablog.com/entry/2013/03/02/161804

今までの記事(すこしだけ訂正しました)も参考にしてもらえると話が分かりやすいです。

では解決編スタートです!!

 

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矛盾点の探索

 

本記事での最初の目標をもう一度確認する。それは「クリプキの論文内での矛盾を見つけ、パズルを瓦解させる」事である。

クリプキの言うパズルとは、信念の文脈において、代入可能性の原理を用いる場合だけではなく、引用符解除原理(加えて翻訳原理)を用いることでも起こる、真理値の変化という矛盾のことだった。そして、信念の文脈において、どちらの文を信じているのかということもそうであった。

 

少し説明から離れて、ある形式についてお話しする。

ある前提として、「AはCである」…{a}と「A’はCでない」…{a'}があるとする。

その時、「BはCである(もしくはCでない)」…{b}という命題の真偽は、先述の二つの前提から導けるだろうか。

無論、不可能である。

 

話を戻そう。{20},{21}に注目してもらいたい。「事の真相」を{a},{a'}とすると、「かくかくの記述を満たす都市ではないロンドン」はどのような扱いをすればよいのだろうか。

それを考えるべく、{4},{6},{7},{8}を用いて※1についての考察をする。

「ジョーンズの一番好きな数がたまたま最小の偶数である」と「ヘスペラスがフォスポラスであることがたまたま発見された」。この二つの文はともに形而上学的な内容である。クリプキが言うにはこれらの二つの内容が必然的か偶然的かと言う話と認識論的な話は切り離されるべきである{6}。なので仮に、認識論的に{1}の文を扱うならば(簡単に言えば必然的、偶然的という修飾語を排し考えるなら)、交換可能性が成り立つであろう。よって、※1の回答は「様相文脈とクリプキは”捉えている”」となる。

 

上のことから、クリプキの言う信念の文脈の中には形而上学的な捉えられ方をされている文章が存在するのかもしれない、という疑念が湧いてくる。そのため、内容が形而上学的であるか認識論的であるかを吟味しなければならない。

「事の真相」は認識論的な内容であろう。”London is not pretty."と"Londres est jolie."も同様である。

だが、A=A’、つまりLondres=Londonはピエールに認識されていない。ゆえに、この等号を前提として文章を捉える場合、それは形而上学的な内容として扱われねばならない。それにも関わらず、認識論的文脈と共に扱おうとするならば、{b}のような形を取らなければならない。前提は{a},{a'}である。答えが導けるはずがないのだ。

{13},{14}できちんとクリプキは 述べている。このようなパラドックスは私たちが文をどうとらえるか、その仕方によって起こるのである。私たちがピエールと同様に認識論的レベルで文を考えれば、{13}の通りだ。しかし、形而上学的な「かくかくの記述を満たす都市ではないロンドン」を持ち出す、つまり{b}に関して問うことは、{14}の問題であり、明らかに回答不可能である(認識されていないものを認識のレベルの文に組み込む、これは言葉遊びなのではないだろうか)。

クリプキの言う『パズルはパズルである』(p353)と私の言う回答不可能は違う。答えはそもそもないのだからパズルではないのだ。(認識されていないものを如何にして認識文脈で扱うことができようか)

(1:ジョーンズの好きな数についての話で、「ジョーンズの一番好きな数」と「最小の素数」を認識論的に扱えば、交換は可能であると述べたが、形而上学的に扱う場合、ジョーンズの好きな数が最小の素数であることを形而上学的なレベルに持ち込まなければならず、さらに、その偶然性や必然性を吟味しなければならない。クリプキは「たまたま」という言葉を挟むことで文の捉え方 (形而上学的) を確定している。しかし、そのことは本当に「たまたま」なのだろうか{6})

(2:「ヘスペラス」と「フォスポラス」の話においても認識論的に、つまり経験的に等号が成り立つことが示されたためにお互いは交換可能となる。ここで形而上学的な話を持ち出す必要を私は感じない)

 

では、ピエールがLondon==Londresを知った場合(「かくかくの記述を満たす都市ではないロンドン」が認識された場合)どうなるのだろうか。信念は何かしらの形で変わり、認識論的な信念の文脈を提示可能となるだけだ。

キケロ」と「タリー」の問題に関しても同様であるため、引用符解除原理のみを用いた場合のパラドックスも勿論同様に解ける。

 

 {6}の矛盾から、それと根底で繋がっていパズルの仕組みを解明することができたのではないだろうか。

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あとがき

 

今回の話にちなんだお話をしようと思っていたのですが、考えていたことを忘れてしまいました。なので、書きながら気が付いたことを書こうと思います。

文をいかに捉えるか、と言う話に今回は落ち着けたのですが、de re,dedictoのところでもそのような話がなされていました(少し違う話ではありますが)。また、東浩紀デリダ論「存在論的、郵便的」でも、文をエクリチュールと捉えるか、パロールと捉えるかの話が出てきていました。文を、と言ういい方はよくないですね。私は適切な表現が思い浮かばなかったので、記事の中では内容と書きましたが、関係とかの方がかっこよくて良かったかも知れません。

前述の本の中でクリプキの話は少しだけでてきます。そこでは固定指示子の純粋伝達性が何やらかんやらと、いろいろ言われていました。超越論的な側面があると書かれていましたが、信念のパズルにおいても、ある意味で超越論的なものが出てきましたね。

何にせよ、あまりいい触れ方ではなかったのかもしれませんが、言語哲学に最初に触れたのはその本を時でした。それを読んでいる最中に、藤田ゼミさんの告知があり、参加する事を決め、「信念のパズル」を読みました。一緒にゼミで議論をしてくださった方々に感謝の気持ちを述べたいです。ゼミでの議論が無ければこのような記事を書くことはなかったと思いますので。また、アドバイスを授けてくださったゼミでの発表者である工藤さんにお礼を言わせていただきたいです。なるべくアドバイスを使わない方針で話を進めてしまって申し訳ありません。

 

読んでくださった方々にも感謝します。拙いですがこれからも書いていこうと思うのでよろしくお願いします。

 

完全に本編とは無関係なお話ですが、最近は不幸な事が多い様です。私の周辺でも何件かありました。「生成は連続する」という立場に立っている私からすると、それはこれに反することで、自然なことではありません。自然でないことを自然なモノが受け止めることは簡単なことではありません。願わくば別の場所で「生成」を連続させてくれていると信じたいです。

では長くなり過ぎるといけないので、また。