20240331_仮面を被るのか、猫として生きるのか

タイピングをする気が起きないのでスマホから書く。

 

今日は9時半に起きた。

その後家のことをして、兄と電話をした。

私のことを心配してくれているらしい。

兄と、昨日話をした友人のそれぞれが反対に見えるアドバイスを私に与えた。これは不思議だなと思った。

ざっくり言えば、外交的に生きろと内省的に生きろ、である。

対義語とは言えない2つだが、ベクトルは135度くらい違うように思える。

そんな二人の意見にも共通点はあり、今は焦らず、大企業にいることを享受しろということだった。

享受、この観点はなかった。下世話な言い方をすれば、上手く利用するということになる。

使えるものを使い、半ば諦めを持ちつつ甘い汁だけ吸う。時たま、働く。

そういう生き方をするとよい、今の環境においては。

そういう助言だった。

私にはあまり耐えられなさそうなことだが、慣れかもしれない。

順応するのにあと3ヶ月はかかりそうで、それまで心が保てるのかどうかはわからない。

 

昼からは外に出た。

二日連続で昼食にそばを食べ、まあこれが、緩いそばで、漬け汁は美味しいのにもったいないなと残念がったが、腹も満たせたしと勇んで海を見に行った。

元町・中華街からハンマーヘッドまで海を眺めつつ25分くらい歩き、ハンマーヘッドの二回のソファで少し休憩を取って、シーバスという小さな船で横浜まで戻った。

海を真剣に見ていたわけでもなく、陽気を浴びに行った形になってしまった。

 

閑話休題。バイザウェイ。ところで。

「猫に学ぶ」という本を体が許すときにちまちま読んでいる。

心が悪いと拒食症になったり、過食症になったり、すると聞いた。ああ、私はと言えば拒読症になる。これがなかなか辛いもので、心の平穏を作り出し、ちょっとしたサプリメントになるものを摂取できないので、負のスパイラルに陥る。

そうそう、猫に学ぶ話だが、人は(死への)不安を消そうと哲学をし、さらに不安になるみたいな話を読んで、さもありなんと思った。

猫は(死への)不安とは無縁である。そういった種の思考を本性的にもたないから。

それで思い出したのが、ネットで犬をアイコンにしている友人だ。猫と言えば犬。犬と言えば猫。

彼は仮面を被って社会人生活を、反吐の出るそれを送っていると話していた。反吐を溜め込んで体調を一度崩し、復活してからは今のところ楽しそうにしている。

不安を覆い隠すために仮面を用いていると彼は話していた。

拒食症は嘔吐するが、拒読症は内言を無限に産む。

私も仮面を被って、はちきれるまで内言を溜めるとどうなるのだろう。

読書は自分が吐き出せないものを吐き出してくれているものを読んで、上手く吐き出せるようにする、赤子の吐き戻しをサポートするために背中を軽く叩くようなものなのかもしれない。

 

特に取り留めはないけど、私は仮面を被るくらいなら、進んで猫になりたい。

仮面を被った猫なんていないだろうし。

20230330_生きているけれども

今日は天気が良かったので外に出た。

12時くらいまで寝ていて、そこから、何とか這い出して、鴨せいろを食べた。

ブックオフに行きよさそうな本を物色し、結果二冊本を買った。

ブックオフに行って思ったのは、結局私は好奇心で動いているということだった。

コンサルをやっていたときに一番パフォーマンスが良かったプロジェクトでは好奇心をかなり満たせていた。

その好奇心というのは、人への興味と知識面の興味両方である。

まとめていえば知的好奇心なのかもしれないが、人がどう考えているかが興味の対象になっているのだと思う。

 

ブックオフに行った後、喫茶店に寄って帰ってきて、横になっていた。

そしたら、大学時代の友達から電話が来て、2時間ほど話し込んでしまった。

大企業病というやつにさいなまれているという話をした。

 

話は変わるけれど、3年ぶりにギターを取り出して引いたら気持ちが良かった。こういうことに時間をかける人生にしたい。

20240328_仕事と生きること

もっとシンプルに行きたいと思った。

私はもともと、宇宙に興味があって、そこから核融合エンジンを学ぶために物理学を専攻し、そこで使われている数学を整備するために、数学基礎論に専攻を変えた。

今思えば遠くに来たもので、なぜか、形だけのDXを推進する立場になっている。

自分のやりたいことや得意なことといえば、ロジックを組んで設計することである。

社会人になって強化されたのは整理する能力である。

今のままではいけないという思いばかりが募る。