選択公理はなぜ必要か?

こんばんは、お久しぶりです。今回はは選択公理について。

 

そもそも選択公理ってなんだよ?という話から。私たちはよく、

y=f(x)=x+1

のような関数を用いますが、これを(素朴)集合論的に書き直すと、R×Rの(Rは実数)の直積と呼ばれるものになります。分かり易く言えば、xy座標系(x,y)というものになります。

先に例で挙げた関数をこの形で書くなら

(x,x+1)

です。

このとき、二つの座標系(xとy)があるのが分かると思います。ここで、仮に座標系の個数が無限個だったら……???みたいなことを考えてみましょう。

(x1,x2,...xn,...)n=1~∞なんてもんを考えるわけです。なんか問題なさそうですね。

例えば全部xn=0(n=1~∞)とかにしちゃえばいいんですよ。(原点ですね、これ)

 

みたいに投げやりにやっちゃうと実は困るんじゃないの?ってのが選択公理です。

いろんな立場があるみたいで、公理として認めない人(濃度で有名なベルシュタインさんとか)もいるそうです。(あくまで素朴集合論まででの話なので、私は公理論的集合論の方はわかりません)

何にせよ双方からの意見を聴くのは大事ですから、選択公理を支持する人の話を聞いてみましょう。

「無限足ある靴の組の各組から、一足ずつ靴をとってくる方法は存在する、例えばすべての組で右の靴を選ぶとすればよいのだ。でもそれが無限足ある靴下の組だったら選択公理が必要だろう。(なぜならば、靴下には左右の靴がないんだから)」

ほうほう、では否定的な人の話も

「存在を仮定するだけで、具体的な方法・規則を示さないのならば意味がない」

なるほど。

まだきちんと選択公理の説明をしてませんでしたので、ここら辺でしておきます。

今さっきの無限個の座標系は無限足の靴or靴下の組に対応しています。

「この座標系に含まれる点(その中の点ならば何でもよい)を指定する方法は存在する」

とするのが選択公理です。

そりゃ当たり前だと思う人もいるでしょう。現に上の例で、xn=0といった風に決められたわけで、それなら靴下でも決められるんじゃないかと

 

……あれ?

 

靴下には区別(左右)がなかったけど、xn=0の0って他の全ての実数と区別されているわけで(0以外の数で0と同じ数はない!)……ということはこれって靴下じゃなくて靴の話なわけですよ。

困った困った。きちんと説明するとか言っておきながら、座標系だったら靴の話になって、当然のことしか言えない。

なるべく数式は出したくないのですが、ちゃんと定義(公理?)を書いておきましょう

「以下のような性質を満たす写像αの存在を保証する

 (∀λ∈Λ)(∃a∈Aλ)(α:Λ→U Aλ);α(λ)=a 」

これを選択公理と呼ぶ。(U Aλは∀λ∈ΛでのAλの和集合です)

λってのが今さっきの1、2…(Λは自然数全体で、つまりは座標の番号)。この定義に合わせて書くならxn=0ではなくx(n)=0で、座標の番号の関数になってます(!?)。

 

座標の番号の関数って変ですよね。最初の(x,x+1)みたいに、無限個の座標にたいして

(x,x+1,x+1,.....)と定めたなら、これはxの関数になるじゃないか!と思うわけですよ。

「存在を仮定する定理であって、具体的な方法は決めてないのが選択公理で、この例では、すでに規則を決めてる(かつ存在も暗に保障されてる)」

しかもさっき言ったことと同様にそれぞれのx+1はすでに他の実数と区別されてます(規則によって)

これも靴下ではなく靴の話になってしまっています。靴下の話にするために座標の番号の関数にしてあるのです。

しっくりこない方もいると思うのでxn=1+x(n≠1),x1=xとして話をすすめてみましょう。

これは、繰り返し言うようにxの関数です。そんじゃ、関数って何だろうって話もしないといけません。

関数は集合の言葉で言うと写像で(対応でもあり、二項関係でもあります)、ふつうに使っているのですが、

「以下の性質を満たす写像fの存在を保証する

  (∀a∈A)(B∋∃b(only))(f:A→B);f(a)=b」

という公理(?)を、私たちは意識せずに使っています。

???

何言ってんだコイツ?ってなるかもしれませんが、上のものは写像の定義で、定義するのは存在を仮定しているからなのです。

第一に、無限個の要素を含む集合相手に、全ての要素がきちんと写されているかどうかなんて確認できないわけですから、そうできていると仮定するしかないのです。

このように関数(の定義)を表すと、選択公理と似ているのがよくわかると思います。また、関数の定義から選択公理に出てくる関数(選択関数と呼ばれます)の存在を証明することはできません(恐らく、というか私にはできませんでした)。

理由はきちんとあるのですが、選択写像をばらしてやると{λ}→Aλ写像(始集合はλただ一つ!)ができます(ばらしてできた一個一個の写像は普通の写像になる)。そこから選択写像を作る際に、それらの写像の直和をとるというおぞましいことをしています。

何が、おぞましいのかというと、「これ、写像で定義されてないんだぜ?」ってところです。

写像で、どんどん始集合の範囲を広げていく拡大写像というものがあるのですが、その写像において終集合は拡大される前と変わりません。しかし、選択写像の場合は変わってるんですU Aλに……

終集合が変わってしまうものを拡大写像として許さない理由は、多分ですが、それを許してしまうと、何でもアリ、何でもアリになっちゃうからです。

始集合を広げていくのが拡大写像なのに、一緒に終集合も変えちゃったら全部、何でも変わっちゃう><ってことです。

 

すごく長々と書いてきましたが、要は、当然っぽいけど(写像の定義と一緒で)無いなら無いで、なんか不安だわ。まあ、どうせ存在するんだろうし公理にしちゃえ!便利だし!って感じなんですかね。

 

詳しい定義や用語の話は集合論の参考書やら解説しているサイトをれば載っていると思いますので、適当なものを参考にされるとイイかもです。

なるべく用語は使わずに高校範囲で話をしようと思ったのですが、難しいですね……