『ブレンパワード 』 についての感想と少しの考察

数学のお話はお休みして、先日見たブレンパワードというアニメの感想を書こうと思います。

wikipedia-ブレンパワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89

 

富野さんの作品を見るのは恐らく初めてで、ロボットアニメも見るのは久しぶりでした。

 

よくロボットアニメで見られる話の形。敵対勢力の根源はとても強力でまともに戦うことは不可能だが、その根源自体は戦う気がさほどなく人間が利用している(と思い込んでる)ために、争いが起きてしまう。このような話の原型となったアニメだったりするのかな?と思いながら見ていました。(他の昔のロボットアニメを見ていないので、どうなのかは分かりません)

原型と思った理由は、その根源を上手く対立項の中に入れていたからです。

 

私が思うにこの話の軸となる対比は2つ。「親(大人)」と「子」、「男」と「女」。そこからキャラクターを4種類に分けることができます。

といっても話が進んでいく中で、主人公や仲間たちは成長していくので、これらの分類から離れて行きます。

 このアニメでは子供の中でも親と子の対立項内に含まれない人々が出てきます。それは孤児たちです。もちろん比瑪もそうです。彼らは純粋な存在として描かれています。純粋な存在とはどういう事か説明していきましょう。

上に挙げた二つの対立項。この二つを貫いているのは責任や義務、権利といった抽象的なものです。それを元にしているが故に、親子の差異はあやふやなものになります。男女の差もそうです。結局は身体的な違いしか残りません。そこの部分についての言及はほとんどありませんが。そしてこの抽象的な対比を越えた存在が純粋な存在です。これでもまだ説明としては不十分なので、新たな補助線を加えます。

作中で頻繁に出てくるオーガニック的なもの。それを持っていることが純粋な存在の条件です。

しかし、オーガニック的なものとは何かが明確ではないですね。

伊佐未父がオルファンの浮上に足りない、何かしらのオーガニック的なものを考えてしました。エネルギーのような数値にとらわれるものではない何か。結論として、それは「関わり」だったと思われます。これを持つことが重要だったのです。

そうなると、孤児たちを除いた人たちの関係は「関わり」ではなかったと言うことになります。

オルヴィス内の人間関係はどちらかと言えば「関わり」に近かったと思います。特にゲイブリッジと女艦長がいなくなった後はそうでしょう。彼らは地球を守る責任を負っていましたが、最後の方ではそれを純粋な「関わり」を保ちたいという欲求へと昇華できていたのではないでしょうか。

この「関わり」とは簡単に言えば、責任や義務が発生しない関係のことでしょう。無意識のうちにそれらが自然と果たされるため、「関わり」は崩れない。自動修正機能を持ち合わせている理想的な関係と言えます。

このバランスを崩すような過度の責任や義務や権利の要求を上記の二つの対立項に含まれる人々はしています。

 彼らによく見られるのは自分たちの権利を主張するくせに、その反作用により生まれる自分の義務や責任を放棄しています。それではバランスが崩れて当然でしょう。

それが故に権利の次元では対立項同士の境目はとても曖昧になります。それを越えた「関わり」においてようやく対立項の関係は存在することができるようになります。

 

(ゲイブリッジが「人類大粛清の汚名は私が着る」と言ってはいましたが、これも勝手な思い上がりです。そもそもその権利はどこから発生したのでしょうか)

(伊佐未母が男は体を求めるでけで低能だと言っていましたが、自分も男を求めるだけの存在になっていたことに、彼女は気が付いていませんでした)

ところで、オルファンはどの分類に入るのか、という問題があります。彼女は母でもあり子でもあるような存在でした。このことは、私が対比の差が曖昧になっていることの論拠としたいところでもあります。そして。彼女は自分の対立項となる存在を求めていました。つまり、「関わり」を求めていたのです。親は子がいるから親になる。それと同様です。

 

孤児たちの「関わり」のレベルでの対立項は誰であったのかと言えば、比瑪だったり、オルヴィス内でお世話をしてくれる人たちだったりします。またクマゾーたちは子供から大人へと変化していく最中であったように思われます。

ここで、「関わり」の中の対比も曖昧なのではないかと言う疑問が出てくるかもしれません。権利の次元ではもちろん差はありません。きちんとわけるならば、他に基準を探さなければなりません。

身体的な差や生むという事実を持ち出せば、親と子の差別はできます。それでは権利の次元と同じ結果になります。

ある意味でそれはあると思います、しかし、「関わり」において明確に区別を作るものは、自発的で自然的な、親としての、また子としての対立項への「関わり」方。使い古された言葉を用いるなら母子愛です。

大人と子供の区別も同様なのですが、こちらの場合はとても揺るぎやすい。変化が一瞬にして起こるわけではありませんから。ここで重要なのはバランスです。バランスが取れてさえすればいいのです。つまりは「関わり」を崩さないということです。

この結論でも曖昧さは残っている気はもちろんします。究極的な区別を求めて、自己と他者に分けるということもできます。そうすればオルファンの求めていたのは他者であり、地球の生物を他者と認めた、と結論づけることができます。しかし、オルヴィスに乗っている人たちは仲間を、広い意味での自己を守っているのではないかと反論することもできます。やはりこちらも曖昧です。

 

最初に対立項が軸となると言いました。この軸から言えることはそれらには曖昧さがあるということです。そして、その曖昧さは、バランスを取りながら対立を作っている。化学平衡みたいなものです。ある時は大人であり、ある時は子供であると。

権利の次元での曖昧さと、「関わり」の次元での曖昧さの違いに関して言えば、権利の次元では自分たちの差異を規定するものを求めつつも放棄しているため曖昧になっているが、「関わり」の次元では区別を設けるもの自体が積極的に区別を作ろうとしないため曖昧になるといったところでしょう。

 

最後になりますが、この話の主題は何だったのでしょうか。個人的な見解としては、他者の必要性だと思っています。バランスを保つには他者がどうしても必要です。そして他者がいるが故にバランスを保たないといけないという循環が起こります。社会はこうやって巡り巡ってその形を保持する。そんな理想的な社会を夢見る話だったのではないでしょうか。

 

ごちゃごちゃしてしまいましたがこんな感じです。

 

 

「エルフェンリート」の感想

こんばんは。

数学の記事を書くことを忘れていました。後日書きます。

 

今回は見終ったばかりのアニメ、エルフェンリートの感想を手短に書こうと思います。

wikipedia-エルフェンリート

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88

 

マンガはだいぶ前に2巻くらいまで読んだのですが、ほとんど内容は忘れてしまっていました。なので、ほぼ初見といっても過言ではなく、端っから首ちょんぱするのはかなり強烈でした。

 

 

それはともかく、私なりの解釈と感想を書いていきます。

 

感想から述べると、グロくて最初は見ていられなかったのですが、話しの真ん中あたりからある程度慣れてきて、話を追えるようなってきました。そして、ちょうど、そこら辺から話が面白くなってくるので、けっこう楽しめました。終わり方も特に不満はありません。

気になったところは主人公のコウタのユカとルーシー(にゅう)に対しての「好き」という発言。

話としてハーレムを構成した方が面白いので、恋愛要素をいれるのはわかります。そんな中、ユカとルーシー(にゅう)どちらの方が好きなのかというのは最後まではっきりしない感じがしました。私の記憶が正しければ、ユカとにゅうには「好き」と言っていましたが、ルーシーには「大好き」と最後で言っていた気がします。これはルーシーを許してあげるために大が付いたのかもしれません。

 

コウタがなぜいろいろな女の子を助けてあげるのか。このことについても、私はよくわかりませんでした。

死んだ妹を重ねてみてしまったり、何もできなかった申し訳なさがあったからだったり、また自分がルーシーに妹を殺させてしまったという悔悟の念からだったり、いろいろと考えられると思います。

コウタに記憶がなかったことを考えれば、ただ人が良かっただけで、ユカの存在も手伝って、助けることに踏み出せているという感じもします。

ルーシーがいなくなった後、居候が増えてないのは、ルーシーを許すと同時に自分も許されたからとすれば、やっぱり悔悟の念が要因のように見えますが、不幸な少女がいつもそこいらにゴロゴロしているわけではないでしょうから簡単には断言できません。

ユカに関してはカナエとコウタの父が殺害されたことを知っているので、コウタが妹と重ねてしまっていると予想し、彼の行動を助けてあげていたみたいですね。

 

お話の解釈ですが、劣等感や差別についてが主だったのではないかと思います。当たり前の事を言っているといえばそうかもしれません。非現実的な存在であるディクロニウスを現実に置きなおして話を解釈していこうと思います。

ルーシーに関して考えるなら、にゅう、本能の声、そしてルーシーの三人について考えなければならないでしょう。

そうなのですが、私は本能の声は無視してもよいのではないかなと思っています。

それはなぜか。子供の時、ルーシーはコウタと別れたのちに、彼女は本能の声に従ってベクターウィルスをまき散らしていたようですが、その生殖行為自体が非常に不可解なものだからです。人類を滅亡させるなら、皆殺しにしてもいいわけです。なのにウィルスをばらまくのは、寂しかったから、仲間が欲しかったからなのではないでしょうか。人類を皆殺しにしてしまうと、彼女は本当に一人ぼっちになってしまいます。

ここから、現実においてだと、本能の声はルーシーの寂しさと劣等感とが混じりあってできた妄想と捉えられるのではないでしょうか。(アニメ内ではきちんと存在していますが)

何か嫌がらせをされたときに、仕返しの妄想をするというのはよくあるでしょう。それの延長線上にあるだけなのではないでしょうか。人類滅亡という大義名分を空想し、ルーシーが自分で言っていた「自分より不幸な存在」を作り出すための存在。人間と言う種族をバカにするような発言からそれが窺えます。

かえって、寂しさが優しさと結びついた存在がにゅうなのだと私は思います。

ルーシーは最初の孤児院のようなところから抜け出す際に犬を助けています。この犬を殺されたために、その優しさを忘れてしまっていたのかもしれません。

 にゅうは現実世界に置きなおしてみても存在できますので、妄想ではないと私は捉えます。人格として半分ほど確立されているようだから、というのも理由の一つです。(アニメにおいては)

結局は個人対個人のお話に落ち着くのではないでしょうか。ルーシーの行動の原理は劣等感とコウタに対する好意(また妹を殺してしまった悔悟)と思われます。好意を最後に受け止めてもらえたことで、またにゅうとしてもルーシーとしても居場所を得られたことで、彼女は優位や劣位という次元から離れることができたと。その次元にいる限りは「自分より不可能な存在」を必要としてしまいます。

なのでエンドロールでの人影はにゅうではなく、ルーシーだったと私は予想しています。(にゅうと人格を統合しているかもしれません)彼女が一年間戻ってこなかったのは居場所を守るためだったとも。楓荘に残ったままだと皆を争いに巻き込んでしまいますから。(5年あれば世界を滅亡できるというような発言をしていましたが、恐らく翌年に帰って来ていると思われます。つまり、滅亡させるために戦いはしていない)

 

他のキャラクターについてはどうでしょうか。少しだけ考えてみます。

ナナに関して、彼女を現実に置くならば、ルーシーとは別の迫害された人間と置けます。彼女はルーシーのように本能の声という妄想に目隠しをされそうになりますが、彼女は最終的に自分の手で自分の居場所を見つけています。

彼女は最初から、クラマと繋がることが出来ていたのが救いでしょう。現実世界で、学校でいじめられて、家に帰っても両親は自分に無頓着で、どこにも居場所がない。そんな子供がかなりいるのではないかと思われます。

ナナはそういう家族的な部分を描くためのキャラクターなのかもしれません。

対として出てくる、マリコも親の愛を与えられることで、ある意味で救われていました。

 

かなり雑に、まとまりも無く書いてきましたが、みんなが救われた、過去から解放されたのでいい終わり方だったと私は思います。

ではこれくらいで終わりにします。次はブレンパワードの感想を書くかもしれません。