私の小さな論説について、後付けの序文(8/19追記)

 こんばんは

 8/18に開催される東京コミティア105にて、ウェブニタスさん(

ウェブニタス -WEBNITAS- : 8月18日(日曜日)の『コミティア105』で新刊を頒布します。

)が販売する「ウェブニタス特別版『概念迷路 特集:根源』」に寄稿させていただきました。サークルスペースは【し13a】です。

 

 私が書かせていただいた「時間性質序説」という論説について少し付言をしていこうと思います。私の言葉足らずさが真意を曇らせていそうなので。

 あまり内容には踏み込まずに(詳しくは購入していただけるとわかるので!)、簡単な後付けをしていきます。

 

 あの文章はのっけから公理やら原理やらなんやらが出てきてわかりづらいようです。厳密に言うならば原理は3つ、公理は5つ。残りは全て定理です。公理が5つというのはユークリッド幾何の公理の個数をパロっています。

 そんな子供っぽい真似をした理由は、ユークリッド幾何学の歴史に関係があります。公理を変更することで別の幾何学が生まれたという事実があり、それにならって公理は選択可能なものだよということを暗に示したかったのです。

 

 また、(幾何学における)数学的対象の実在については未だに議論が続いてるものだと思われますが、それと同様に時間の実在についてもはっきり言えば分りません。私はそのことについて興味はさほどないのです。

 ただ私は、私たちの言う「存在している時間」は本当に存在しているのだろうかという問いを投げかけたかったのです。公理化自体は、私たちの言う漠然とした「存在している時間」に含まれる概念をきちんと分けるための手段に過ぎません。

 

 先に述べた公理は選択可能であるという話と繋がりますが、私があのような論の進め方をとった理由は既存の時間論とは別の見方を提供したかったからです。今までたくさんの、おびただし数の時間に関する書物が刊行されていると思います。それらの内容を道具として使って議論をしていくのも面白いでしょう。それはまるで、公理から様々な定理を導くかのようです。

 でも、私はそのようなことをしたくありませんでした。定理を導いているように見えて、単に既にある定理を用いて問題を解いているだけ。そんな状況になるのを恐れたからです。それならば私が参考文献に挙げた書籍や、上げなかった種々の時間論を読んでいただいた方が数倍良いでしょう。

 もちろん、私の話は全く持って独立した、独創的な、創造的な時間論ではありません。その証拠に参考文献があります。しかし、それらはユークリッド幾何学の5つの公理のように選択が可能で、それらの公理を足場にして様々な幾何学ができたように、私の時間論もできました。それだけのことです。

 

 反論はもちろんあると思います。それらについては聞かれた際に対応し、真摯に受け止めたいと思っています。それよりも私は誤解を恐れたので、この記事を書きました。

 

 みなさんにコミティアで手に取っていただけることを願っています。私の論説よりおもしろい論説がたくさん載っていますので、そちらを目当てに買ってください。

 

 では、東京コミティアで僕と握手!!

 

追記

 寄せられていた感想について、少しだけお答えします。私が思っていた以上に読みにくい文章だったらしく、誤解されている部分が多かったようです。

 私の予想通り公理化こだわってしまわれる方が多いようです。上に述べたようにそこは重要ではありません。また、私が文章内で述べている時間という単語のほとんどは、他の言葉で言い換えるならば「時間概念」となります。

 時間の公理化というような副題?が付いています(私のつけたものではございません)が、私が行っているのは時間概念、つまり物質の性質において時間概念の素となる性質を抜き出してきているのです。故にそれらの公理的性質は物質の性質です。本文中でも強調しておいたと思います。

 それらを組み合わせたものが時間概念であり、その概念をすでに独立に存在しているモノとすることが時間の実体化です。独立してというのが肝です。組み合わせる際に5つのそれらから「選び取って組み合わせる」ということも大事です。下に述べる公理化の話ともつながってきます。

 時間が独立して存在するとすることでパラドックスが生まれる。これは感想で寄せられていた、数理論理学の公理化の話と同じです。というか私のやっていることです。もとの集合から離れた物を想定して話をすれば、パラドックスが起きても仕方ないだろうと。

 加えて、実数線形空間時間という話が出ていましたが、私はそれを実体化した時間よりのものだと思っています。そこについては公理的性質の説明(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)で軽く触れています。また、私が説明に数直線のような図を使わなかった理由でもあります。これは他の方が述べられていたニュートン的な絶対時間と同じです。私はそれについてどちらかと言えば否定的な立場をとっているはずです。

 最後に、時間の実在については私は何も語っていません。というか、そんなんわからんよと書いています。物体の実在を認めているだけです。そこから出てくる時間概念に、独立して存在することを認める、「実体化した時間」を認めることがよくないよ、と私は述べているのです。

 

 なぜこのように誤解されることが多かったのか。私の文章が読みづらかったのが8割で、残りの2割は時間は存在するものと思い込みがちだからでしょう。故に時間の本質というような言葉が使われるわけで、おそらくこの言葉を皆さんが使う際には「存在する時間」の本質という意味でつかっているのでしょう。それは人の自由だと思いますが、私は時間概念の本質という意味でつかっており、存在する時間の本質なんて探究しようがないと端っから投げています。