同一性についての覚え書き②

こんばんは、おひさしぶりです。

 

だいーぶ前に書いた

同一性についての覚え書き① - 間のページ

の続きでも書こうかなと思った次第です。

 

といっても私がその時何を書こうと思ったのか忘れてしまったので、続きにはならないのかも。

 

スワンプマンの話を冒頭にして、最後になんか例を出してますね。その例をまた持ってきましょう。

例②:2日前、歩いていたら、道端にコーラの空き缶が転がっていたのを見かけた。今日、同じ道を歩いていると、潰された同じコーラの空き缶が2日前にあった場所とは少し離れた所に落ちていた。

 

この二つの空き缶は「同じ」か?というのが問題になるわけですが、どうでしょう?

2日前って微妙ですよね。しかもつぶれて、場所もうごいているわけですよ。もしかしたらもしかして奇跡的に捨てられずに残っていたのかもしれないし、全く持っての別人(別缶?)かもしれない。

 

実際にこのような状況と似たような経験をしたことがある人もいるかと思います。

 

空き缶だとあまりにも弱っちい(?)ので、建物なんかどうでしょうか。流石に大災害やら戦争やらがない限り同じ形の建物なら何年経っていても、「同じ建物だ」と人は言うでしょう。一度壊してもう一度同じもの建てることなんて、そうそうありませんから。

 

空き缶と建物の違いはどこにあるんでしょうか。

 

すこし脱線しますが、個人的な経験から例を一つ。

私には幼い頃大事にしていたもので猫の姿をしたお手玉がありました。今も実家に残っています。そのお手玉猫くん(名前付けてたんですけどね。忘れてしまいました。ポチャくんだったかな)、実をいうと2代目なんですよ。幼い私はどこに出かけるにもポチャくんを連れて行ってました。そしてとある日、悲劇が起こってしまったのです。

落としちゃいました(確か新幹線の中)

 

いやー新幹線から降りておじいちゃんちに着くとポチャくんがいなくなってるんですよ。新幹線の中ではあんなに元気に飛び跳ねて(投げられて)いたのに。

ショックだったと思いますホント。

ってことがあり、気が付くと2代目ポチャくんが手元にいました。2代目をどこで買ったのか全く覚えてませんし、ついでに言うと記憶に残ってるのは新幹線の中で亡くしたらしい(?)ということだけです。

当時は2代目な感じは全くしてませんでした。小学3年生くらいになって、「あーあの時やっぱり失くしてたんだなー」といったところですかね。今も2代目とは思ってませんが。

 

失くしてるとわかっていながらも「同じ」ってヘンだなーというお話でした。

 

話を戻すと、ポチャくんと建物は恐らく似通った「同じ」で、空き缶は別種の「同じ」なのではないかな?と思います。

前回の記事で書いた、「同値」が前者で、「同等」が後者でしょう。

正確に言うならば、「ポチャくんの場合、順序関係における同等は満たしてないが同値である」。また、「缶の場合、順序関係における同等を満たしていないため同値ではない」となります。(もしかすると同じ缶だ!と言う人がいるかもしれません。その時は同値です)

 

私たちが人について言及する場合も基本的には「同値」の意味で「同じ」を使っています。

「見た目や性格、名前が変わろうとも同じ人間は同じだ!」

自己同一性ってやつですね。

では、同値関係はどのように決められるのでしょうか。

時間が過ぎてしまったもの、目の前にないもの同士を私たちは比較できません。なんとか比較するべく順序を使います。尺度はいろいろです。

でも、いくら大幅に変わっていたとしても、多くの場合、同じ人間は同じ人間だと思ってしまいます。

順序って意外と役に立ってないみたいですね。むしろ最初から同値だと決めてかかってるんじゃないかと思うくらいです。

スワンプマンの例でも、「死」が無駄にデカい感じがして違う人間かも?って思っちゃいますが、死んだって聞かなかったら同じ人間って答えそうですよね。(そもそも死ってなんだ)

なんでちょっと設定いじりましょ。

「沼に入ったら(死んだりせずに)一瞬気を失い、その瞬間、物質的に全く同じ人間が一人複製されて、沼から同じ人間が二人出てきた」としたら……どっちが本物なのでしょうか?また、二人は同じ人間なのでしょうか?お互いに記憶は同じだとしましょう。

 

SFチックになっちゃいました。私はこれから自分なりの答えを考えます。

ただ一つ思うのは、クローンが当たり前になった30XX年みたいな時代だと、自己同一性って考え方自体が変わってる気がするんですよね……

では、また。