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アントニオ・タブッキについての覚え書き①

おはようございます。

この夏休みに読みふけっていた、アントニオ・タブッキについてちょっとばかし書こうと思います。(後日訂正を加えるかもです、あまりにもまとまっていないので)

アントニオ・タブッキ - Wikipedia

ユリイカで彼の特集号が二冊でており、彼の自伝?が一冊出ています(どれも未読)。

また、タブッキ論も日本人で書かれている方がいらっしゃるみたいです。

 

私が読んだのは、『インド夜想曲』『逆さまゲーム(☆)』『島とクジラと女をめぐる断片(★)』『時は老いいそぐ(☆)』『遠い水平線』『レクイエム』『供述によるとぺレイラは』『夢のなかの夢(★)』です(読んだ順、☆は短編集、★は分節化された?小説)。

 

白状すると、『逆さまゲーム』と『時は老いいそぐ』の二作はよく内容が分かっていません。特に後者は解釈が固まっていない物ばかりです。

 

それぞれの作品についてはおいておき、タブッキの小説全体から感じるものは、「曖昧さ」でした。もちろん、いい意味で(「曖昧さ」をはぎ取られた「確固たるもの」も感じられはしましたが)。

 

自分とは何か、過去とは何か、現実とは何か。これらには対立項である、他人、未来(現在)、夢が存在しています。でも、それらは明確に分けられるのでしょうか。そして、どういう意味で分けているのでしょうか。

タブッキは親切な?作家なのか、大抵の作品にちょっとしたまえがきかあとがきをつけており、そこでぼんやりと、そうぼんやりと説明を加えてくれています(全く関係のない、作中に出てくる料理の説明まで!)。

 

『島とクジラと女をめぐる断片』のまえがきで、彼は

「僕のいつもの欠点、反対側からものを見ようとする悪癖」ということを言っています。

それがよく出ているのが『逆さまゲーム』なのではないかなと思ってます。題名のまんまですね。

先述の疑問に対して言えば、「反対側から見る」ことで、どのような意味で分けているのかが見えてきます。(それぞれどうなのかは僕らが読んだり、考えたりしなければなりませんが)

そして、その分け方から、大した区分ではないとでも言いましょうか。非常にそれが曖昧なもの、もしくは無意味なものだと、タブッキは言うわけです(性格には彼が言っているのではなく、そういっているように私は感じました)。

『遠い水平線』の冒頭にジャンケレヴィッチの言葉が引用されていました。

「≪存在した≫という状態は、いわば≪第三類≫に属していて、≪存在している≫とも、≪存在していない≫とも、根本的に異質なことである」

この文を読むと、今まで私の言っていた区別の軽視は悪い解釈のように思えてきます。あとがきで彼はこのように述べています。

「水平線とは、幾何学的な表現だ。私の登場人物も、何かの魔法で、水平線に到達してくれたことをこころから願っている。彼もまた、遠い水平線を目のなかにもつ人間だったから」

その前にスピノザも遠い水平線を目に持つ人間だったとも書かれていました。

私がスピノザについてよく知らないので、ちゃんと解釈を進めることができませんが、スピノザデカルト以来の物心二元論に区切りをつけようと、それらの分け方は同じものを異なる側面から見たものに過ぎないといったような哲学を持っていたようです。そしてその物体と精神は両方とも神の下につなぎとめられている(平行して動く)みたいです(間違ってるかもしれません)。

どうやら「遠い水平線」とは何かを理解できれば、決着が付きそうです。

スピノザにおける「遠い水平線」とは物心二元論でしょう。「私の登場人物も」とあるように、スピノザは自分のもつ水平線に到達できたのだと思われます。

ということは、「遠い水平線」とは区別そのものなのでしょう。その片方の側から見るのではなく、境界線(水平線)上から見る、つまり両側を見られるようになることが、「到達」なのではないでしょうか。

区別を軽視するというよりかは、単純に分けてどちらかに偏るのではなく、両側から見ると言った方がいいですね。そして、両方を見ていれば自分は中間になるわけですから、区分は曖昧なものになるでしょう。ただ、それは分けられるものによるのかもしれません。

そのことを示すためにジャンケレヴィッチの言葉を用いているのだと思います(『遠い水平線』自体のテーマは、個人的には「自己」だと思っているのですが、ジャンケレヴィッチも≪存在した≫ことと一緒に「自己」についてよく語っているので、繋がりはあるのだと思います)。

 

長く(かつ、もっとごちゃごちゃに)なりそうなので、今日はここら辺で止めておこうと思います。

なんにせよタブッキは面白いです!(白水uブックスから文庫本が出ているので是非)