the toshi no se

先日、旧知の友から電話がかかってきた。

私が元気にしているか確認したかったらしい。

数年前、28までには死にたいと口癖のように言っていて、

彼はそれを耳にタコができるくらい聴かされていたのだった。

喫茶店の喫煙席で数式をノートに書き付けながら、友人の説得に反論する。

1、2時間やりあって、もうやめようと席を立ち、二人でビリヤード場に向かう。

そんなことを毎週繰り返していた。ひどいときはほぼ毎日、こんな感じだったかもしれない。

今も28で死ぬ気なのか。

まだ死ねない。やりたいことがあって、残り2、3年じゃ足りないから。

 

電話が切れて、当時のことや自分のやりたかったことを思い返そうとした。

もう2017年が終わる。今年度で自分は学生を終える。

この7年間は私に何をもたらしたのだろうか。

 

編入をしてから得たものは、自分のごまかし方だった。

なんとか自分を抑えてやりくりしていく。その分の反動もあり、ダメな日はすごくダメになった。

周りを見る余裕も手に入れられた。

オトナと呼ばれる人たちも、どこかしら自分をだまして何とかやっているのだと気づく。

でも、私と違うのはだました分のリカバリをきちんとやっているところ。

趣味・娯楽、何かしらの形で昇華する。

私もそれができるようになれば、幸せな人生を送れるようになるのだろうか。

 

ダメな日は月に1回くらいで来る。最近のそれはやる気が何も起きないとか、そういった類のものではない。

思春期真っ只中の性衝動のように急激な欲求で、それは自分のやりたかったことを志向する。その上、異様な神経質さを私に付加する。

時間を置いて鎮める以外に、うまく対処する方法をまだ見つけられていない。

 

前の学科をやめた原因はコイツだった。

内側からストレスが積み上げられていき、体が壊れそうになっていた。

自分でも、このまま行くと死ぬかもしれないと感じていた。

死にたくはない。

休学する際に必要な診断書をもらうために、カウンセリングを受けに行った。

お医者さんは、鬱でもないし、神経質なところがあるだけだと診断する。

ただ、その神経質さがすさまじく、対象も非常に限定されていると。

 

私が考え付いた対処法は、その対象に触れない、近づかないようにすること。

これが私なりのだまし方。

この方法には限界がある。近頃、それを感じつつある。

また大変なことになる前にどうにかしなければならない。

 

暗い話になってしまったけど、

2018年の抱負は、昇華するすべを見つける、ということになる。

先延ばしにし続けても生きていけるくらい、人生は長いのだと思う。

限界がまた来たら、その時対処法を考えよう。

手巻きタバコはじめました

こんばんは。

タイトル通り手巻きタバコ始めました、一か月くらい前から。

 

もともとお金がないときとかに巻いてはいたのですが、これからは手巻きをちゃんと楽しんでいきたいなと思っております。

私が日ごろ吸っているのはsweet dublinという銘柄で、はっぱ自体はパイプ用のものです。ブランデーを思わせる甘さと葉っぱ自体の味が上手く重ね合わせられていて、香りがぶ厚いです。入りから抜けまで香りが弱まらないのもいいです。

 

手巻きの良さはリーズナブルさというより、趣味性の高さでしょうか。

美味しく吸うためには葉っぱの管理・巻紙とフィルターの選別が欠かせないなと思う今日この頃。

たとえば、葉っぱは乾燥すると辛みが出てしまいます(湿らせすぎるとカビちゃうのと、個人的には香りが鈍る感じがする)。

巻紙は燃焼速度を葉っぱに合わせないといけないですし、添加物が入りすぎてると髪の味が強くなって不味くなってしまう。

フィルターも強いものだと、香りを損ない、太さも燃焼に影響を及ぼすので考えないといけない。

巻くのも含めてけっこうめんどくさいんですけど、「あ~~盆栽育ててるじいちゃんの気分~~」ってテンションあがります。

ブレンドとかもいつかしてみたい(ガラムの味を再現したい)。

 

たばこ関連で、この前ピースのシガーが出てましたね。紙巻だとピースはよく吸うので買ってみました。リトルシガーに寄せて、ロンピとショートピースの中間で、パンチを無くしたといった味でした。

吸いやすさはあれど、リトルシガーとしては味が薄めで、ショッピの辛さが出てロンピの甘さが消えた平坦な味。抜けくらいしかピースらしさがなかったかな……。

 

手巻きに慣れると紙巻には戻れなくなりそう……。

今後は葉っぱの記事も増えるのかもです。

 

今日はこんな感じで

 

 

うるささと時間

 こんばんは。

 

ブログ一本にして、毎週末に記事を上げていこうと思っていたのだけど、思うところあって記事を書く。

 

SNSをやめた副作用のようなものを感じている話とタイムマネジメントの話。

 

最近のSNSは思い立ったらすぐに投稿して、シェアするという使い方をするものだと思う。mixiやモバゲーやらの日記は違い、ある意味でずっと独り言を続けるようなもの。

 

それを何年もやっていたせいか、SNSをやめてからというもの、自分の頭の中がすごくうるさく感じる。投稿して外に出すことができず、そのまま頭の中に沈殿していく感じ。溜まって残るから、ふとした拍子にまた浮き上がっても来る。

 

これはどうにかしないと、ちょっと頭痛くなりそうだなと思い、ブログの記事にすることにしたのだ。

 

 

話は変わって、タイムマネジメントについて。

 

私は時間管理が苦手だ。そのせいで自己管理も下手だし、生きるのもそこそこ下手。

なんとかしないとなと思い、タイムマネジメントの本を読んでみた。

その本の肝と思われる個所は次の2つだ。

・習慣化

・一本化

これらを行うことで、無駄が省けるというものである。

習慣にすれば、無意識化で行えるようになるのでかかる労力を減らせる。

管理する情報・管理する手段を一本化することで、散逸しないし、混乱もしない。

共に、自己管理に無駄なリソースを割くのをやめましょうということになる。

その例として、一つの外部記憶を使い倒せと書かれていた。スケジュール帳も覚書もすべて一つに。

メモすれば忘れないで済むことを覚える労力は無駄。そのエネルギーを集中すべきことに回せる。

どこにメモをやったのか探す労力も無駄。一つにしておけばすぐに見つかる(なくさないように肌身離さず持っておくのを習慣にする)。

確かに合理的で、私は気が付くと手帳を買っていた。就活の時にも手帳を買ったけど、有用な使い方をしなかった記憶がある。

ああ、そういえば私はメモを取るのが苦手だった。頭の中で整理するから別にいいとも思うのだけど。

「整理してメモを書く」のと「混乱したメモを読んで頭の中で整理する」の、どちらがコストがかかるのだろうか。初期コストは前者だが、長期的に見れば後者の方がトータルでコストがかかるような気がする。

苦手な理由は一つで、何が必要な情報なのかわかってないのだ、おそらく。だからどう整理すればいいのかもわからない。

未来の自分に書置きする気分で書くことにしよう。

 

話はSNSに戻る。

外部記憶うんぬんで、SNSもそれとして機能していた可能性がある。頭の中に残しておく必要のないこと、集中して考える必要のないものを外に出していた。今はそれがないから頭の中がごちゃごちゃしてしまう。しかも、条件反射的に浮かんでくるものばかりで際限がない。

リハビリとして、ブログ以外に紙媒体にでも書きつけた方がよさそう。

 

今日はこんな感じで。